2017年08月09日

長崎88歳の朗読

 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の市長挨拶はスーッとしました。いや、スカッ。これでなくっちゃね。被爆者代表の深堀さんの「平和への誓い」に胸打たれました。朗読も88歳だからこその訴えが漲り素晴らしかった。言葉に魂がこもっていて、心に真っすぐ刺さってきた!! 私はこんな朗読がしたいのだ。
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平和への誓い。
 原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。
 爆心地から3.6キロ離れた、長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。
 11時2分、白いせん光と爆発音を感じ、慌てて机の下に潜り込みました。
 夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと、山の中腹まで来たところ、山上から逃げてくる多くのけが人に山の向こうは一面火の海だからと制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。
 長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界二迷い込んだようでした。
ようやくたどりついた山王神社近くの親戚の家は倒壊していました。
その中で、家のはりを右腕に抱きかかえるような姿で、18歳の姉は息絶えていました。
あのとき、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて、最後に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。
そのあと、大学病院へ向かい、さらに丘を越えると、眼下に浦上天主堂が炎上していました。
 涙があふれ出るとともに、怒りを覚え、ああ、世界が終わると思いました。
ここ、平和公園の横を流れる川には、折り重なって死体が浮いていました。
 私は、三ツ山に疎開していた両親に、姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で、材木を井桁に組み、姉の遺体をだびに付しました。
その日は晴天でした。
 頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気が迫り、目がくらみそうでした。
 母は少し離れた場所で、地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。
たった一発の原子爆弾は、7万4000人の尊い命を奪い、7万5000人を傷つけました。
あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びもつかの間、得体のしれない病魔に冒され、帰らぬ人となりました。
なんと恐ろしいことでしょう。
 私は核は人類と共存できないと確信しています。
 2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し、国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯えました。
しかし、リスクの巨大さにあえいでいるさなか、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。
 地震多発国のわが国にあって、いかなる厳しい規制基準も、地震の前には無力です。
 原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。
 戦後、平和憲法を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ、世界各国から集めた尊敬と信頼は、決して失ってはなりません。
また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。
 私は1979年、原爆で生き残った有志6人で、原爆写真の収集を始め、これまでにさまざまな人たちが撮影した、4000枚を超える写真を収集、検証してまいりました。
 原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために、微力を尽くすことを、亡くなられた御霊の前に誓います。
 2017年平成29年8月9日被爆者代表深堀好敏
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 そのあとのソーリの挨拶は広島に続いて最低・・・というより、頭の中の構造がいったいどうなってるのか、まったく分からん。市長と被爆者の代表が言っていたこと、聞いてたの? ぬけぬけと何言ってんの!真面目な深刻な顔さえすれば、「嘘」にならないのか。あ、それから核の「カク」のアクセント、何度も間違えたぞ。頭高で読みなさい。そもそも私が退屈してアクセントに興味が行ってしまうというのも、まずい朗読の代表なの。

posted by Hiromi at 21:53| 愛知 ☁| がま口弘美の日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする